さすがプロ。ドレスとも合っているし、目はパッチリとしたけれど上品さは残したままだ。 鏡に映る自分を不思議な気分で見つめていると、宮田さんが後ろから近寄ってきているのに気づいた。 彼はなにも言わずに私を椅子から立たせて、自分と向かい合わせになるように正面から凝視する。 ドレス姿の私をじろじろと上から下まで見た後、私の顔に焦点を合わせた。「どうしよう。めちゃくちゃ可愛いよ!」 とびきり嬉しそうな顔をして、宮田さんが思い切り抱きついてきた。「わっ! 」 慌てた私が、咄嗟に驚きの声をあげる。 な、なにをするんですか! 仕切られたスペースだとは言え、美容院ですよ、ここは。「宮田くーん。せっかくのメイクと髪、崩さないでね。今ここでイチャイチャしないで、パーティが終わってからにしなよ」 気持ちはわかるけど、なんて言いながらマチコさんが呆れて笑っている。「うん。パーティ後にはいっぱいイチャつくよ。今キスしたらリップもグロスも落ちちゃうからね」 「え、宮田くんって意外と肉食なのね。まぁ、男は多少肉食じゃないとね。草食なんてダメダメ!」 ……なんという恐ろしい会話をしてるんですか! だけど……私を抱きしめる宮田さんの温もりがやさしくて、彼の上品なスーツから漂うフレグランスの香りに酔いそうになる。 その場を取り繕うように少し抵抗して見せるけれど、ドキドキとうるさい自分の心臓に、私自身が嫌でも自覚させられた。 ――― この人を、意識していると。「二人とも、また来てね」 「うん、ありがとう。またね」 マチコさんがタクシーを呼んでくれて、美容室を後にした。 だいたい、今日の宮田さんは反則だ。 いつもふざけた調子で、なにひとつ真剣なことを言ってる感じがしない人なのに。 今日ばかりは、どこを取っても普通の大人のイケメンだ。 普段とギャップが激しすぎる。 ……だからだ。私もドキドキしてしまったり、いつもと違ったりするのは。 タクシーの中、窓の外の流れる景色を見ながらそんなことを考えていると隣に座る宮田さんが私の手をふいに繋いだ。「朝日奈さんって綺麗な手をしてるよね。……そうだ、今度はブレスレッドやリングもデザインしてみようかな」 繋いだ手をまじまじと見つめながら、彼が穏やかな口調でそう言った。 ジュエリーのデ
「興味が沸いたんですか?」 「興味? それなら初めからずっとあるけど?」 へぇ、そうなんだ。今度はジュエリーか。 最上梨子が本気で作るジュエリーは、きっとまた誰もが心を奪われるデザインなんだろうな。 「興味がなきゃ、こんなに構いたいとは思わないし……この腕や指に似合うものを作ってみたいなんて思わないよ」 「………」 今もまた、会話がかみ合わなかった気がする。 私が尋ねた興味の対象は、ジュエリーデザインのことだったが、宮田さんが言った対象はきっとそのことじゃない。 さっき美容室でマチコさんにも、私のことを好き……みたいなことを口走っていたけれど、この人がどこまで本気で言ってるのかはわからない。 社交辞令というか冗談なのだとすれば、こちらも笑って聞き流せばいい。 だけど、もしも…… 先ほどの「好き」も、今の言葉も、本気で言っているのだとすれば…… 私は宮田さんに、その想いに対しての答えのようなものを用意しなければいけないんじゃないのかな。 ――― 私が彼のことをどう思っているのか。 タクシーが、パーティ会場であるホテルの正面玄関前に、滑り込むように停まった。 先に車を降りた宮田さんが、私が降りようとすると、にっこり笑って手を差し伸べてくれる。 その紳士的な行動に、自分がお姫様にでもなったような錯覚を起こしてしまいそうだ。 辿り着いた先は某有名ホテルだった。 そこのスタッフさんはもちろんきちんとした応対だし、どこもかしこも手垢ひとつ付いていないくらい清掃が行き届いている。 パーティ会場の入り口で受付をし、中へ入ると普段の自分がいる世界とは全く違う異世界が広がっていた。「さすがは香西健太郎。お金かかってるね」 「そ、そうですね。私……帰りたい」 こんな世界に、私が居ちゃいけない気がする。普通に混じっていたらダメだ。 全員が絢爛豪華なドレスを身に纏って颯爽としているのだから。 私のように着慣れないドレスを着て挙動不審にしている人なんて、ひとりもいない。「そんなこと言わないでよ」 帰りたい、と言った私の言葉を耳ざとく聞きつけた宮田さんがそう言って苦笑う。「ほら、ビュッフェの料理、おいしそうだよ? ホテルの自慢のおいしい料理の食べ放題バイキングだと思って、リラックスして!」 「む、無理です」
「あの人……めちゃくちゃ綺麗」 光り輝くように美しい女性の姿が、自然と私の目に飛び込んでくる。 オシャレな白のドレスに身を包んだその女性は、美しさからかほかの人よりも一際目立っていた。 年齢は若くスタイル抜群、顔は小さいし……パーフェクトな美人だ。「あー、モデルのハンナだよ」 宮田さんがボーイさんからシャンパンの入ったグラスをふたつ受け取って、ひとつを私に手渡す。「ハンナさん?」 「うん。知らないかな? 最近、香西さんのお気に入りでね。ファッションフェスタにもよく出演してるよ。お、今日も彼女は全身“香西ブランド”だ」 宮田さんがそう教えてくれたけれど、私は彼女を知らなかった。 そっか、モデルさんかぁ。 どうりで美人だし、香西さんがデザインしたドレスもよく似合うはずだ。「うらやましいです。私とは同じ女とは思えない美しさで」 「なに言ってんの。あんなの見かけだけだよ」 「……え?」 「中身は見た目とは全然違う。彼女は性格が悪いって評判だ」 私の耳元で、コソコソと話す宮田さんの言葉が、信じられなかった。 今だって、周りの人たちが誰でも虜にされてしまいそうな、太陽みたいな笑顔を振りまいてるのに?! ……ここは、話半分に聞いておこう。 宮田さんのことだから、大げさに言っただけかもしれないし、その人のことをなにも知らないのに最初から色眼鏡で見るのはよくない。 それに、今の私と彼女は仕事上接点がないのだから、どうであれ関係ないことだ。「あっ!」 ふと宮田さんが小さく声をあげて、誰かに手を振っている。 その視線の先に居たのは……「香西さんと目があった。挨拶に行こう」 このパーティのホストである香西健太郎さんの元には、ひっきりなしに様々な人が挨拶や談笑に訪れる。 宮田さんはその切れ目を狙っていたようで、香西さんも目が合ったのをきっかけに笑顔でこちらに歩み寄って来てくれていた。 私たちもすかさず香西さんの元へ向かう。「やぁ、よく来てくれたね」 生で見るのは初めてだけれど、以前にテレビで見たときと同様、香西さんはオシャレで素敵なオジさまだ。 さすがは名の知れたデザイナー。 全身から一般人とは違うオーラが溢れ出ている気がする。「事務所創立十五周年、おめでとうございます」 「ありがとう。豪華な花が事務
「こちらの可愛らしい方は? 君の恋人?」 私に視線を移し、香西さんが紳士的で素敵な笑みを浮かべる。「そうだといいんですけどね。残念ながら違います」 「でも君が女性と一緒だなんて初めて見たよ。君は本当は男が好きなんじゃないかって、俺は疑い始めてたんだけどね」 「冗談じゃないですよ。やめてください」 宮田さんがそう答えると、香西さんは愉快そうにワハハと笑った。 本当にあったんだ……ゲイ疑惑。「初めまして。リーベ・ブライダルの朝日奈と申します」 「どうも。香西です。……リーベ・ブライダルさん?」 「実は今、ブライダルドレスのデザインをやってるんです」 その宮田さんの言葉に、ハッと驚いて視線を向けた。 彼は今、『僕』と名乗ったから。 今の発言は……大丈夫なんだろうか。「あ、大丈夫だよ。香西さんは僕の正体を知ってるんだ」 「そ、そうだったんですか」 咄嗟に宮田さんが失言したのかと思った。 自分が最上梨子であると、口を滑らせたのかと思ったのだけれど違ったらしい。 ホッと胸を撫で下ろす。焦って損した。 びっくりするから、そういうことは事前にこちらに言っておいていただきたい。「君の恋人じゃないなら、俺が彼女の恋人に立候補しようかなぁ」 楽しそうな笑みを貼り付けて、香西さんが腕組みをしながらそんな冗談を言う。「ダメですよ。僕が口説いてる最中なんだから」 いや、口説かれている実感はあまりありませんよ。 からかわれている実感なら十分ありますけど。「口説くのに、順番なんてあるのか?」 「ていうか、香西さんには綺麗な奥さんがいるでしょ!」 「あれ、そうだったか」 「そんなこと言ってても奥さんにベタ惚れなの、知ってますからね」 宮田さんがムッと口を尖らせてそこまで言うと、香西さんは再び噴出すように笑った。 いつも私をからかってばかりの宮田さんが、香西さんと話していたらからかわれる立場に逆転だ。 そんな珍しい姿を見ると、おかしくて私も笑みが零れる。「冗談冗談。君が彼女を好きなのはすぐにわかったよ。今日の彼女、君のトータルコーディネートだろ?」 そう言いながら、香西さんは私のドレスのほうへ視線を下げる。「いいじゃないか、このドレス。もしかして……これか? 最近作った自信作っていうドレスは」 「はい。そうです」
「売り出したり、ショーに出す予定はないですよ」 「は? どうしてだ? ここまで良い出来なのに」 「元々そういうつもりで作ったものじゃないからです」 宮田さんの発言には、香西さんも驚いたように目を丸くして黙り込んでいた。 私もそれには激しく同意で、じゃあなぜこのドレスを作ったのかと不思議に思う。 たまたま良いデザインが描けたから? だったら、ショーに出してお披露目してもいいはずなのに。「え……そういうことか?」 「……はい」 「彼女のために?」 「はっきりそう言われると照れますけど」 今の二人の会話は、一体どういうこと?? 照れる、と言った宮田さんを見ると少し顔を赤らめていて、私だけが会話の意味がわからずにポカンとしてしまった。「だからか。サイズも、彼女の雰囲気にも、ドレスがぴったりと当てはまってるのは」 「えぇ」 「最上梨子に全身包まれてる、って感じだな。朝日奈さんは君の愛がたっぷりと込められたドレスを着ているわけだ」 微笑ましいものを見るように、香西さんは私と宮田さんに笑顔を向けるけれど。 私の脳はそれを理解する処理が非常に遅くてついていけない。 香西さんがほかのパーティ客に挨拶するために私たちの元を離れたあと、やっと言われてる意味がわかりだした。 宮田さんは、このドレスを……… ――― 私のためにデザインし、作ったということ? 隣にいる宮田さんをそっと盗み見るけれど、既にその表情はいつも通りの飄々としたもので、本当はどうなのか、何を考えているのかは私には読めない。 だけど、香西さんと宮田さんの会話を頭の中に再び思い浮かべて考えてみると、どうしても先ほどの結論に至る。 いや、でも……それはありえない。 いくら遊び感覚で作ったものだと言っても、私のイメージに合わせてデザインを考え、パタンナーに型紙を起こしてもらい、縫製をしてだなんて……。 例えこのドレスが慌てて作ったサンプル品だったとしても、仕上がってくるまでの期間が短すぎる。 私と宮田さんは、初めて顔を合わせてから一ヶ月と少ししか経っていない。 百歩譲って私と初対面の日からデザインを考え始めたとしても、私が先週デザイン事務所の衣裳部屋を訪れたときには、すでにあそこの部屋にこのドレスは存在していた。 こんなに完璧に、きちんと縫製されて
それに……以前に宮田さんが言っていた言葉をふと思い出した。『このドレスもネックレスも、朝日奈さんしか着ないし付けないし。ほかの人は誰であってもこれを身につけるのは僕が許さないよ』 たしかに……そう言ったんだ。 まるでドレスが、元々私のものであるかのように。「あの……宮田さん……」 目の前に広がる美味しそうな料理を堪能しようと、白いお皿を手にした宮田さんにそっと声をかけた。「どうしたの?」 「さっきのことなんですけど」 「ん?」 ほんの数分前の出来事なのに、香西さんとの会話の内容は頭からすっかり抜け落ちたみたいな反応だった。「さっき香西さんに仰っていたことです。このドレスが……私のためのものだ、って。本当ですか?」 「あー……うん、そう」 頷くように首を縦に振った宮田さんは、また少し顔を赤くした。 それは先ほど香西さんに見せたものと同じ顔だ。「でも、事務所で試着したときには、ひと言もそんなこと言わなかったじゃないですか。あのとき、私の体のサイズでも入るドレスを出してきてくれただけだとばかり……」 このドレスを試着する前、宮田さんは私の肩と腰に触れて体格を目で測っていたはず。 あの計測の元、このドレスが選ばれたんじゃなかったの?!「恥ずかしかったんだよ。特定の人をイメージしてドレスを作ることなんて今まで散々やってきたのにね。好きな女性に着てもらうために、ドレスを一から制作したのは初めてだった。でも……君のために作ったよ、って堂々と口にするのは、いざとなったらなんだか照れくさくてさ」 「ちょっと……待ってください」 信じられない。 本当に私をイメージして、一から作ったって言うの?「いくらなんでも、出来上がるのが短期間すぎます。私と出会う前からデザインを描いていたとしか考えられませんけど……」 私の存在など関係なしにデザインが描かれていたならば、私をイメージして……というには語弊があると思うけれど。「デザインは、朝日奈さんと出会う前に描き終わってたよ」 「……え?」 「ほら、雑誌。あの紙面の中の朝日奈さんを見ていたら、このドレスのデザインがどんどん頭に浮かんできちゃってね」 そうか、あの……雑誌。 袴田部長に騙されて受けた例の取材のときのやつだ。
でも、ちょっと待って。 あの雑誌の中の私を見て、デザインを描き始めたっていうの? あの時点では、私たちがこうして仕事上繋がりができるなんてまだわからなかったのに。 宮田さんのほうから私に接触を試みたならまだしも、最上梨子にブライダルドレスのデザインを依頼するためにアポを取って接触したのは私のほうだ。「朝日奈さんと初めて会ったとき……大袈裟かもしれないけど運命だと思った。僕が一目見て、想像を掻き立てられる女性が雑誌の中にいたと思っていたら、その一週間後に実物が目の前に現れたんだから」 にわかに信じがたいことを、宮田さんの口から語られる。 私は唖然と聞いているしかできないでいた。「初めて会った日、いつか僕のデザインしたドレスを着てもらえたらなって思った。実際に採寸したわけじゃなかったから、詳しいサイズはわからないままだったけど、朝日奈さんと同じ身長の女性の平均的なサイズでパタンナーに依頼をかけたんだ。縫製は僕も少し携わった。だからこんなに早く仕上がったんだよ」 初めて会った日に、私の身長から大体でサイズを決めたの? そんなにアバウトに型紙を起こしてしまって、実際にサイズが合わなかったら……。 というか、着る機会さえなかったら、どうしていたんだろう?「ちょうどドレスが出来上がったときに、香西さんからこのパーティの招待があってね。朝日奈さんが一緒に行ってくれるなら、このドレスを着てほしいと思った」 「でも、あの試着のとき……宮田さんはどれでも私が好きなのを選んでいいって」 「そうは言ったけど……僕は最初からこのドレスをさりげなく勧めるつもりだったよ。だって僕にとっては自信作だし、こんなに似合うんだから」 そう言って、サラリとドレスのスカートの部分に触れられて、ドキっと心臓が跳ね上がる。「今気づいたんだけどさ、こういうの、ほら……アレだよ、アレ」 「なんですか?」 「一目惚れ」 自分から言ったにも関わらず、宮田さんは照れたのか顔を赤くする。 私に一目惚れ? ………信じられない。 なんとなくあいた間が嫌で、ドッキリですか?と冗談めかして言おうとしてやめた。 だって…… 赤くした顔をプイっと逸らせて恥ずかしそうにする彼を、不覚にも素敵だと思ってしまったから。
宮田さんが適当においしそうなお料理をお皿に取り分けて、私にそれを手渡してくれた。 こんな豪華すぎるパーティに来たのも初めてならば、男の人にこうやってお料理を取ってもらうことも初めてだ。 私に一目惚れをしていた、みたいなことも言われたし……。 先ほどから緊張とドキドキで、どうにかなりそう。 だけど浮き足立ってばかりはいられない。 お皿はきちんと持って、こぼさないように注意しないと。 私の不注意でこのドレスを汚してしまうことだけは避けなければいけないから。「このお肉にかかってるソース、おいしいよ」 隣に居る宮田さんは、無邪気にそんなことを言いながらお肉を頬張る。 つい先ほどまで照れていたのに、今はもう何食わぬ顔だ。 私もそろそろ、意識しすぎるのは疲れるからやめよう。 ひとつ大きく深呼吸をして、何気なく会場内を見渡したときだった ―――「……え……」 私はとある一点を見つめたまま、動けなくなってしまった。 一瞬で、あの人だとわかったのに…… もうひとりの私が、そんなはずはないとそれを打ち消す。 ……きっと違う。似てるだけで別人だ。「朝日奈さん? どうしたの?」 じっと一点を見つめたままの私に、隣に居た宮田さんが不思議そうに声をかける。 そして、私が見ている同じ方向に、なにがあるのだろうと視線を移した。「……あ、岳(がく)だ」 隣でそう呟いた宮田さんに、驚いて今度は私が宮田さんを見上げる。 彼はいつも通り人懐っこい笑みを浮かべていて、視線の方向は変えないままだ。「おーい、岳ー!」 軽く手を上げて、その視線の先にいる誰かに無邪気に合図を送る。 もしかして、私が見ていた人と宮田さんが合図している人は違うかもしれない。 そう思ったのに…… 宮田さんの声と合図に気づいてこちらに近づいてくる人は、スラリとした長身のイケメンで、偶然にも私の視線の先にいた人と同じだった。「お知り合い……ですか?」 そっと宮田さんにそう尋ねると、笑顔で「うん」と首を縦に振る。「昴樹くん、久しぶり!」 「うん、久しぶりだなぁ! 岳に会えるなんて思わなかった」 「なんかカッコよくなってんじゃん。ワックスで髪遊ばせてるし」 「なに言ってんだよ、岳のほうがよっぽどイケメンのくせに」 久しぶりに会ったらしい二人は、再
「いえ。最上梨子が描きました」 「……だからそれは、あなたでは?」 ……どうして部長がそれを知ってるのだろう。 私の強張った顔からは嫌な汗が噴出し、これ以上ないくらいに激しい動悸がした。「ぶ、部長! なにを仰っているのかわからないです」 「朝日奈、お前は黙ってろ。俺は今、宮田さんに尋ねているんだ」 ここで部長にバレたらどうなるの? せっかくこんなに素敵なデザインを描いてもらえたというのに、すべて白紙に戻るかもしれない。 宮田さんは最初に言ったから。 秘密がバレたら、仕事は反故にする、と。 実際に、このデザインがドレスになることはないの? 幻で終わる? それも嫌だけれど、そんなことよりも。 部長がこの事実をほかの誰かに漏らしてしまったら……彼が最上梨子だったと世間にバレてしまいかねない。 それは絶対に嫌だ。 だって彼がずっと守り通してきた秘密なのだから バレるなんてダメ! 絶対にダメ!!「宮田さんは最上さんのマネージャーさんですよ! な、なにを変なこと言い出してるんですか、部長!」 「……朝日奈」 「私、黙りませんよ! おかしなことを言ってるのは部長ですから! 違いますよ、絶対に違います! マ、マネージャーさんが……そんな、デザインなんて描けるわけもないですし……」 「朝日奈さん、もういいです」 そう言った宮田さんを見ると、困ったような顔で笑っていた。「袴田さんには最初からバレる気がなんとなくしていました」 「朝日奈が必死に否定したのが、逆に肯定的で決定打でしたけどね」 「はは。そうですね」 そのふたりの会話で気が遠のきそうになった。 私があわてて否定すればするほど、逆に怪しかっただなんて。「で、いつから気づいてました?」 「変だなと思ったのは、あなたがここに視察に来たときです」 部長の言葉に、やはりという表情で宮田さんが穏やかに笑う。「普通、物を造る人間は大抵自分の目で見て確認したいものです。特にデザイナーなんていう、なにもない“無”のところから発想を生み出す人間は。……私もそうでしたからわかります」 「そうですね」 「だけどあなたは最上さんの代理だと言ってやって来た。いくら彼女がメディアには出ないと言っても、それはさすがに不自然でしたから」 「なるほど」 私にはそんなこと、ひ
エレベーターで企画部のフロアに到着すると、先に宮田さんを会議室へと通して袴田部長を呼びに行く。 私がコーヒーを三つお盆に乗せて部屋に入ると、ふたりが立ってお決まりの挨拶をしているところだった。「わざわざご足労いただいて恐縮です」 「いえいえ。こちらこそ最上本人じゃなく私が代理で訪れる非礼をお許しください」 「早速ですが、デザインが出来たとかで……?」 「はい」 袴田部長もどんなデザインなのか気になっているのだろう。 ワクワクしているような笑顔を私たちに見せる。「朝日奈、お前はもう見たんだろう?」 「はい。部長も今からド肝を抜かれますよ」 「お前……客人の前で“ド肝”って……」 「あ、すみません」 いけない、いけない。 普段の口調からなにかボロが出ることもあるんだから、この際私は極力黙っていよう。「では袴田さんもご覧いだだけますか」 先ほどと同じように、宮田さんが書類ケースからデザイン画の描かれたケント紙を取り出して部長の前に差し出す。 それを一目見た部長は、一瞬で目を丸くして驚いた様子だった。「これは……すごい」 ドレスの形はマーメイド。 色はエメラルドグリーンを基調に、下にさがるほど濃くなるグラデーションになっている。 肩の部分はノースリーブで、胸のところで生地の切り返しがあってセクシーさを強調している。 そして、なんと言っても素晴らしいのはスカート部分だ。 元々、曲線美を得意とする最上梨子らしく、長い裾のスカートのデザインは、まるで波のような動きを表していた。「この部分は?」 部長が指をさしたのは、肩から羽織る白のオーガンジーの部分だった。「海のイメージだったので、最上は人魚を連想したようで。それで形もマーメイドにしたようなのですが、上半身が少し寂しい気がしてそれを付け足したそうです。必要ないなら省くように言いましょうか?」 「いえ。これはまるで“羽衣”みたいだと思ったもので。私もあったほうがいいと思います。しかしドレスの色も、いいですねぇ」 「朝日奈さんに聞けば、披露宴会場の中は深いブルーにするおつもりだと。そこで最上は明るいエメラルドグリーンのドレスが映えると思いついたみたいです」 さすがですね、とデザインをベタ褒めする部長を見ていると私もうれしくて頬が緩んだ。 自分で絶好調だと
*** 約束していた翌日。 私は朝一番で袴田部長のデスクへ行き、ブライダルドレスのデザインが出来たことを報告した。 最上梨子の代理として宮田さんがデザイン画を持ってくる件も話し、部長のスケジュールを確認する。「それにしても、突然出来るもんかなぁ」 「え?」 「いやだって、全然進んでないみたいなこと言ってただろ?」 そうやって、少し不思議そうにする部長に、私は満面の笑みでこう口にした。「最上梨子は天才なんですよ」 宮田さんに伝えた時間は十四時。 その少し前に私は一階に降りて宮田さんの到着を待った。 しばらくすると、黒のスーツに身を包んだ宮田さんが現れて私に合図を送る。「お疲れ様。昨日のアレで足腰痛くない?」 「え!!……ここでそういう話は……」 「あはは。緋雪、動揺してる」 ムッと口を尖らせると、彼は逆にニヤっと意味深な笑みを浮かべた。「その顔やめてよ。尖らせた唇にキスしたくなる」 そう言われて私は一瞬で唇を引っ込めた。「あちらのテーブルへどうぞ。言っときますけど今日は“仕事”ですからね、宮田さん!」 「はいはい」 ガツンと言ってやったつもりなのに、この人には全然効いてない。 ……ま、それは以前から変わっていないな。「これなんだけど……」 移動するとすぐに宮田さんは書類ケースから一枚のケント紙を取り出して私に見せた。 テーブルの上に並べられたそれを見て、私は一瞬で驚愕する。「な……なんですか、これは……」 ケント紙に綺麗に濃淡をつけて色づけされたデザイン画。 生地の素材や装飾の内容など、詳しいことは鉛筆で書き込まれている。 それらを見て、私は息が止まりそうになった。「あれ……ダメだった?」 おかしいな、などと口にしながら隣でおどける彼を、 この時 ――――本当に天才だと思った。「マーメイド……。こんなすごいドレスのデザイン、私は初めて見ました。最上梨子は……計り知れない天才ですね」 「……そう? 緋雪に褒められると嬉しいな」 「感動して泣きそうです。行きましょう! 部長に見せに」 テンション高くそう言うと、宮田さんがにっこりと余裕の笑みを浮かべた。
しばらく意識を手放していた私がぼんやりと目を開けると、そこには逞しい胸板があった。 私を腕枕していた手が肩を掴んで、ギュッと身体ごと抱き寄せる。「起きた?」 声のするほうを何気なく見上げると、やさしい眼差しが向けられていた。 目が合うと先ほどまでの情事を思い出して、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。「緋雪は恥ずかしがり屋さんなんだね」 そう言ってこめかみにキスを落とす彼は、余裕綽々だ。「あ、そうだ。頼まれてたデザイン、出来たんだけど」 「デザインって……」 「もちろんブライダルドレス。海のやつね」 「え?!」 以前に彼が自分で採点をしてボツにしたデザインじゃなくて……。 まったく新しいものを描き直してくれたのだと思うけれど。「出来たって……納得できるものが描けたってことですか?」 「うん。けっこう自信あるよ。自分の中じゃ手直しは要らないと思うくらい」 「え~、すごい!」 食いつくように目を輝かせる私を見て、彼がクスリと笑った。「最近、仕事が絶好調なんだよね。急になにか降臨してくるみたいに、ポーンとデザインが頭の中に浮かぶんだ」 「そういうのを、天才って言うんですよ」 「そうかな? 緋雪と結ばれた次の日から急にそうなったんだけど」 香西さんが、最近の彼のデザインを見てパワーアップしてると言っていたし、素晴らしい才能だと絶賛していたことを思い出す。 やっぱりこの人は、天才なんだ。「出来たデザイン、見せてください」 「ごめん、今ここにはないんだ。事務所にあるから」 「じゃあ、明日事務所に行くので……」 「僕が緋雪の会社に持って行くよ」 「え?」 明日の予定を思い出しながら、何時に事務所を訪問しようかと思考をめぐらせていると、宮田さんから意外な言葉が発せられた。 私がデザイン事務所を訪れることが、普通になっていたのに、どういう風の吹き回しだろう。「うちの会社に、来るんですか?!」 「うん。どのみち出来上がったデザインは袴田さんに見せることになるよね? だったら僕が行ったほうが早いから」 「それはそうですけど……」 「あ、緋雪は一番に見たい?」 その質問には素直にコクリと頷く。 自分が担当だということもあるから余計に、誰よりも早くそれを見たい気持ちがあるのはたしかだ。「じゃあ、袴田さんに会う前
急激に自分の顔が赤らむのがわかった。 彼の言うことはもっともだと思うのだけれど、いざとなると恥ずかしさが先に立つ。「じゃあ……プライベートではそう呼ぶようにします」 「今、呼んで」 「え?!……こっ……こうき」 舌を噛みそうなほどガチガチに緊張しながら彼の名を呼ぶと、クスリと笑われた。「緋雪は本当にかわいい」 「もう!」 「ちゃんとベッドでもそう呼んでね」 からかわないでと言おうとしたところに、逆に彼のそんな言葉を聞いて更に顔が熱くなった。「顔、赤いけど?」 「そりゃ、赤くもなりますよ」 いつの間にか至近距離に彼の顔があって…。 そのなんとも言えない色気に、一瞬で飲み込まれてしまった。「その顔……ヤバい。すごく色っぽい」 「え? ……逆だと思いますけど」 「は? 僕? なにかフェロモンが出てるのかな? 今、めちゃくちゃ欲情してるから」 耳元で囁かれると、電流が走ったように脳に響いた。 彼のくれるキスは、最初は優しくて甘い。だけどそのうち深く、激しくなって……。 舌を絡め取られるうちに、なにも考えられなくなっていく。 手を引かれ、寝室の扉を開けると、彼が私の後頭部を支えるように深いキスが再開された。「緋雪は僕を誘惑するのが本当に上手だね」 ベッドになだれ込んで、覆いかぶさる彼を見上げると、異様なほどの妖艶な光を放っている。「ど、どっちが……ですか」 誘惑されているのは、私のほう。 欲情させられているのも、私のほう。 あなたは自分の持つ色気にただ気づいていないだけ。 ――― 色気があるのは、あなたのほう。 あなたの長い指が、私の髪を梳く。 あなたの大きな掌が、私の胸を包む。 あなたの柔らかい舌が、私の目尻の涙を掬う。「ほら、呼んで? 名前」 ふたりの吐息が交じり合う中、律動をやめずに彼が言う。「……い、今?」 「さっき約束したじゃん」 パーティの夜にも同じことをしたけれど…… 今日の彼はあの時より余裕があって少し意地悪だ。 私には余裕なんて、微塵も無いのに。「早く呼んでよ。じゃないと、僕も限界が来そう」 ほら、と急かされるけれど。 私もやってくる波に煽られて、身体が自然とのけぞってくる。「こう……き。……昴樹……好き」 私の声を聞いて、一瞬止まった彼の律動が
「今日、岳になにをされた?」 感触を確かめながら、私の右手をそっと握る彼の瞳に嫉妬の色が伺える。「全部は見てなかったから。抱きしめられた?」 「いえ、それはないです!」 「だけど、頬にキスはされたよね?」 ……それは、見てたんだ。 というか、二階堂さんも見られているタイミングでわざとやったんだろうけど。「ほかの男でも腹が立つのに、相手が相手だ。緋雪が昔一目惚れした岳だよ?! 僕があれを見て、どれだけ気が気じゃなかったかわかる?」 だから……一目惚れじゃなくて、憧れなのに。「だったらなぜ、私に八年前のことを言わせたんですか?」 私にとっては、もう昔のことで。 ただの憧れだったし、今は綺麗な思い出だ。 だから、八年前のことを二階堂さんに告げてもあまり意味はなかったのに。「緋雪が今も岳のことが心に引っかかってて……要するに好きなんだったら、後悔のないように告白させてあげたかった」 「それで、私と二階堂さんがくっ付いちゃったらどうするつもりだったんです?」 「そしたら……岳から奪う」 彼が、諦める、と言わなかったことがうれしくて。 私の右手を握る彼の手の上に、自分の左手を重ねる。「私は二階堂さんじゃなくて、あなたが好きです」 「緋雪………初めて好きって言ってくれたね」 もっと早く、言うべきだった。 どこまでが冗談なのかわからない彼は、本当は異才を放つ最上梨子なのだ そう思うと、何の取り柄も無い女である私が傍にいるのはためらわれていた。 彼が仕事で関わるモデルの女性はみんな綺麗だから、私より絶対魅力的に決まっている……なんて、歪んだ感情も芽生えたりしていた。 好きだと態度で示されても、気まぐれにからかわれているだけだと思っていた。 いや……思おうとしていたんだ。 彼のデザインを見るたび、彼の作ったドレスに触れるたび、心をギュッと鷲づかみにされてその才能の蜜に吸い寄せられていた。 そんな人に好きだと言われ、態度で示されたら……。 しかもキスなんてされたら……最初から、ひとたまりもなかったのに。「僕も、好きだよ」 彼が心底うれしそうな顔をして、私の右の頬を撫でた。 そしてそこへ、ふわりと口付ける。 今日、二階堂さんがキスした場所と同じところだ。「上書き完了」 そう呟いた彼の顔が妖艶すぎ
「宮田さんにとって、私ってなんですか?」 「え?」 「どういうポジションにいます?」 泣いても喚いても、執拗に詮索しても。 あなたにとって私がなんでもない存在ならば…… 嫉妬したって、それは滑稽でしかない。「一度抱いただけの、仕事絡みの女ですか?」 「違う!!」 弱々しい私の言葉を、彼の大きな声が否定する。「僕は恋人だと思ってるし、緋雪以外の女性に興味はない」 信じないの? と彼が切なそうな表情をする。「こんなに緋雪のことが好きで、思いきり態度にも出してると思うんだけど。僕は自分で言うのもなんだけど一途だし。なのにそこを疑われるなんて……」 不貞腐れたように口を尖らせる彼に、そっと唇を寄せる。 そう言ってくれたことが嬉しくて、気がつくと衝動的に自分からふわりとキスをしていた。 唇を離すと、驚いた顔の彼と目が合う。「良かった。本当に枕営業しちゃったのかと思いました」 「……は?」 それは、パーティの席でハンナさんに言われたことだ。 なぜか今、それを思い出して口にしてしまった。 自分でもどうしてわざわざそれを持ち出したのかと思うとおかしくて、笑いがこみ上げてくる。「あのパーティの夜、宮田さんは……午前〇時を過ぎても魔法は解けないって言ってくれましたけど。朝になったら解けちゃったのかなと……なんとなく思っていたんです」 「どうして? 僕は解けない恋の魔法を緋雪にかけたつもりなんだけどな。あ、いや、ちょっと待って。それじゃやっぱり、僕は魔法使いってことになるじゃん!」 真剣な顔をしてそう抗議する彼に、噴き出して笑う。「不安だったのは、僕のほうだよ」 「……?」 「あの夜は気持ちが通じたと思ったし、心も身体も愛し合えたと思った。だけど、もしも無かったことにされたら……って考えたら、不安だった」 「……そんな」 「僕はやっぱり魔法使いで、王子は岳なのかも…って」 ――― 知らなかった。 宮田さんがこんなふうに思っていたなんて。 二階堂さんと私のことを、こんなにも気にしていたなんて。「宮田さんは王子様兼魔法使いなんですよ」 「……何その“兼”って、一人二役的な感じは」 「それとも私たちは、シンデレラとはストーリーが違うのかも。ていうか、一人二役でなにか問題あります?」 「……ないけど」 気まぐ
手を引かれ、十二階に位置する彼の居住空間へと初めて足を踏み入れる。「お、お邪魔します。お家、ずいぶん広いですね」 おずおずと上がりこんだ部屋には大きめのリビングとダイニングキッチンがあり、話を聞くとどうやら2LDKの間取りのようだ。 まるでモデルルームのように家具やカーテンの色や風合いがマッチしていてパーフェクトな空間だった。 この前麗子さんと話していて、宮田さんはどんなところに住んでいるんだろうと、気になってはいたけれど。 それがこんなに広くてスタイリッシュな空間だったとは思いもしなかった。「ここのマンションの住人には、ルームシェアしてる人もいるみたい。僕はもちろんひとりだけど」 なるほど。ルームシェアもこの広さなら出来ると思う。 なのに贅沢にこの部屋で一人暮らしだなんて……。「緋雪、気に入ったならここに越して来る?」 「え?! 私とルームシェアですか?」 「なにをバカなこと言ってんの! 僕たちが一緒に住む場合は、“同棲”になるだろ」 肩を揺らしてケラケラと笑う彼を見て、拍子抜けしたと同時に私の緊張もほぐれた。 私がはっきりと返事をしないまま、その提案が立ち消えになったことにもホッとする。「いつも事務所じゃコーヒーだけど、今日はビールがいい?」 ソファーに座る私に、彼はそう言ってキッチンからグラスと冷えた缶ビールを持ってきた。「ありがとうございます」 「パーティのとき思ったけど、緋雪はお酒飲めるよね?」 「あ、はい。それなりには」 コツンとお互いにグラスを合わせ、注がれたビールを口に含む。 ゴクゴクと美味しそうにビールを飲み込む彼の喉仏が、やけに色っぽい。 隣に居ながらそれを見てしまうと、自動的に心拍数が上がった。「今日のことだけど。僕が、モデルの子と一緒にいた件……」 ふと会話が止まったところでその話題を口にされ、私から少し笑みが引っ込んだ。「あの子はハンナの後輩なんだけど、けっこう気の強い子でね。ハンナのこともライバル心からかすごく嫌っていて。僕は今日、巻き込まれたっていうか……あの子が、」 「もういいです」 「……え?」 「もう、それ以上聞かないでおきます」 ハンナさんへの当て付けなのか、本気なのかはわからないけれど、あの女性が宮田さんに迫ったんだろうとなんとなく直感した。「言わせて
*** 会社に戻る途中、ずっとモヤモヤした気持ちが抜けなかった。 なんだこれ。こんなんじゃ仕事にならない、とエレベーターの中でそんな自分に気づき、両頬をパンパンっと叩いて喝を入れる。 そうやって気合を入れたのに集中力は続かず、終わったときには時計は十九時半を回っていた。 そうだ、電話しなきゃ……。 ロッカールームで思い出し、宮田さんの番号を表示させて発信する。 今日のことを弁解させてほしいと言っていた彼の困惑した顔が脳裏に浮かんだ。 私だって…… あのモデルの女性と、あんなところでなにをしていたの?と、気にならなくはないけれど。 正直に聞くのが怖い。『もしもし』 数回目のコールで、落ち着いたトーンの彼の声が耳に届いた。「お疲れ様です。今、仕事が終わりました」 『お疲れ様。もう会社の前にいるから降りてきてよ』 「え……はい」 そのまま通話を切り、私はあわててロッカールームを後にした。 遅く感じるエレベーターに乗り込み、会社の外に飛び出すと、一台の車がハザードをつけて停まっていることに気づく。 助手席側のドアを背にして立つ宮田さんの姿があった。 ポケットに手を入れて佇む姿が、車を背景にしているせいか、とても様になっている。 そんなことよりも。たしかに会社に迎えに来るとは言っていたけれど……「い、いったいいつから居たんですか?!」 「はは。息が切れてるね」 それは、エレベーターを降りたあとダッシュで走って来たからです。「私のことはいいんです!」 「えーっと……着いたのは1時間くらい前、かな」 「そんな時間からここに居たんですか?!」 「うん。終わったら電話くれる約束だったし。 だからここで待ってた。とりあえず車に乗って?」 そう言って、彼が背にしていた助手席のドアを開ける。 ずいぶんと待たせたのに、不機嫌じゃないんだ……。 などと思いながら、私は促されるまま助手席に乗り込むとドアを閉められた。 宮田さんはハンドルを握り、喧騒が未だ落ち着きを取り戻さない夜の街を走り抜ける。「あの……どこ行くんですか?」 なぜか運転中無言になっている彼の横顔を見つめつつ、静かに問う。「あー、そう言えばそうだ。どこに行こうか」 「え……」 そっか。そうだった。 この人はこういう人だ。中身は変人と